道路は封鎖され、鉄道は沈黙し、200万人の食料はあと36日分しか残されていなかった。そこへ最初の輸送機が着陸した。
ベルリン空輸作戦の始まり:輸送機が冷戦の爆撃機となった時
230万トンの貨物はいかにして一発の銃弾も放たずにスターリンを打ち負かしたか
スターリンがベルリンを封鎖した時、連合軍のパイロットたちは200万人の命を守るため27万8000回の飛行任務を遂行した。
1948年6月28日午前6時、ジャック・ベネット中尉はヴィースバーデン空軍基地でC-47スカイトレインのコックピットに乗り込んだ。貨物室には小麦粉と粉ミルクがぎっしり詰まっていた。眼下では、200万人の西ベルリン市民が停電3日目の朝を迎えていた。冷蔵庫は温まり始め、子供たちは「どうして電気がつかないの」と尋ねていた。3日前、ヨシフ・スターリンはベルリンへ通じるすべての道路、鉄道、運河を封鎖していた。完全なる封鎖だった。ベルリンは飢えるか、降伏するかの二択を迫られた。
その朝のベネットの飛行は「ヴィトルズ作戦」の一環だった。軍の計画立案者たちが内心「狂気の沙汰」と呼んだ、アメリカの即興的な対応策である。数字は不可能を示していた。西ベルリンが生き延びるには、食料、石炭、医薬品など1日4500トンの物資が必要だった。しかしヨーロッパに配備されたアメリカの全輸送機でも、運べるのはせいぜい700トン程度だった。イギリス空軍准将レジナルド・ウェイトはRAFヴンストルフから調整を行いながら計算した。夏の好天があと6週間もすれば、この作戦は崩壊するだろう、と。
しかし、その混乱の最初の数日間に、驚くべきことが起きた。フランクフルトからの空中回廊を飛んでいたゲイル・ハルヴォーセン中尉は、テンペルホーフ空港のフェンス越しに飛行機の着陸を見つめる子供たちに気づいた。占領下ドイツの他の地域の子供たちとは違い、彼らは何も求めなかった。心を動かされたハルヴォーセンは、翌日キャンディを落とすと約束し、自分の機だとわかるように翼を振ると伝えた。数週間のうちに「リトル・ヴィトルズ作戦」として、艦隊中のパイロットたちがチョコレートやガムを小さなパラシュートで投下するようになった。空輸作戦の終わりまでに、25トンものキャンディが投下された。
ソ連は信じられない思いでこれを見守った。西側諸国は交渉に応じ、あるいはベルリンを完全に放棄するだろうと計算していたのだ。だが目の当たりにしたのは、前例のない精密さで展開される空の舞踏だった。混乱を収拾するために招かれたロジスティクスの天才、ウィリアム・タナー将軍は、この作戦をベルトコンベアのように変貌させた。テンペルホーフには3分ごとに飛行機が着陸し、パイロットたちは着陸をミスしても旋回することを禁じられた。基地に戻り、もう一度やり直せ。冬になる頃には、1日8000トンの物資を届けるまでになっていた。
💡 パイロットたちはハンカチで作った小さなパラシュートを使い、23トンものキャンディをベルリンの子供たちに投下した。ハルヴォーセン中尉はこれにより「翼を振るおじさん(アンクル・ウィグリー・ウィングス)」というあだ名で呼ばれるようになった。